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池之上小学校のあゆみ

 池の上の地名の元は下北沢村の小字(こあざ)で、池之上小学校の校名もそれに由来したものと思われますが、校名の「之」は初代の岸上校長が格調を高める意味でつけられたとのことです。

 昭和初めのこの地区の小学校は今年130年を祝った代沢小学校だけで、東北沢駅近くの学童も代沢小学校に通っていたのです。昭和8年に今の井の頭線が開通し、池の上駅が出来ると住宅が急増し代沢小学校がマンモス化した為、昭和15年9月に池之上小学校が開校することになります。

 学校の敷地となっている所は草ぼうぼうの牧草地で、放牧の牛が草をはんでいました。今も校庭にある老松は、当時からある記念すべき松で、学校のシンボルになっています。校庭の草は開校してもまだ残っていて、当時の生徒の一番の思い出は校庭の草とりだったと言ってもいいでしょう。

 開校当時の生徒数は504名で、代沢小学校から363名、多聞小学校から141名で、一年から四年までの12学級でした。開校日は9月1日ですが、開校記念日が21日になっているのは、1日が関東大震災の記念日であることなどの為です。

 昭和16年4月、池之上国民学校となり12月の太平洋戦の開戦より戦時色の濃い教育が行われるようになりました。

 昭和17年10月に岸上校長の作詞、学校近くに住まわれていた呉泰次郎氏の作曲による校歌が制定されましたが、その年が日本独自の年号の皇紀2600年であった為、愛国的な内容のもので、戦後の昭和28年に中山峰三郎作詞に改定され作曲はそのままで現在も歌われています。

 校章もやはり2600年に因んだ桜に曲玉ですが、これは現在もそのままです。
校旗は昭和18年3月の第1回卒業式に一期生が贈ったものです。

 戦争は益々激しくなり、東京にも空襲があるようになったので、昭和19年8月学童集団疎開が行われ、昭和20年5月には校庭に焼夷弾が投下され、校舎は陸軍の管理下になり、残留の生徒は町会事務所などで学びました。

 昭和20年8月終戦となり、11月に疎開児童が復帰し授業再開、22年に世田谷区立池之上小学校となり、5月にはPTAが発足しました。

 28年に校地が拡張され、生徒数も20年の403名から29年には1339名になり、30年にはプールが完成。区の競技大会で優勝しました。



 41年から校舎の改築が始まり、45年の30周年には鉄筋三階校舎・体育館が竣工し祝賀会がありました。

 年号が平成となり2年11月に開校50周年の記念式典・祝賀会があり、タイムカプセルが設置されました。中には当時の生徒の、30年後の自分を想像した作文などを入れ、学校二階の資料室に保存され80周年の開封を待っています。

 12年に60周年、そして来年の平成22年には70周年を迎えます。

 平成21年5月の学級数は12、生徒数は302名。教育目標を「たくましくて思いやりのある子」とそいて次世代を担う人材の育成が行われています。